誕生〜破壊〜再生  #1 「認められる」とは

久しぶりにある友人と話をした。体調不良を訴えて2ヵ月、未だ禁酒を強いられているオレと、知人内では酒好きで通っている彼の間とでは、居酒屋という場所は決してフェアな環境下とは言えない。もう1人の「ヲレ」は、そんな「オレ」の自制心を心底憎んだ。


彼曰く「はてなダイアリー」の大衆読者数は、某ブログ(コミュニティ拡張ブログとでも言おうか)をはるかに上回るらしい。両立させている彼が言うのだから、見当違いなものではないだろう。

さて、今回の話題は「認められる」についてである。結論から言うと、文章を書く者にとって、否、仕事をするにしても何にしても、他人に「認められる」というのは、最大のテーマであるとオレは仮定する。
「影響力」というのもあるが、これは「認められた」上での産物で「認知」されなければ影響もクソもない。


「認められたい」     

あなたも誰かにそう願っているハズである。でも心配するなかれ。その考えは至って健全なものなのである。
なぜイチローはあんなにも野球がうまいのに、それでも人一倍練習するのか。
なぜ中村俊輔はもっとうまくなりたい、と言うのか。やはりそれはそのフィールドで「認められたい」からであり、それが「好き」だからである。「好きだから」と書いたが、好きの対象、それは仕事でないと「認められる」は発生しないとオレは掲げる。趣味において「認める」は生まれない。例えば「趣味は歌うことです」という人がいるとする。実際、本当に上手いとしよう。しかしそれだけで相手のパーソナルな部分を認められるだろうか。私にはできない。何故なら、趣味では生きてはいけない。生きていく手段として手にした卓越した技術、才能、その人の生き様、その部分を見て私は初めて感動するわけであり、その与える感動が「認知」を生むのではなかろうか。趣味は周囲を対象としない。生活に支障もきたさない。あくまでも自己中心的なものである。そんなものでは、他者に感動を与えることは絶対にできないと私は思って止まない。

「なぜ文章を書くのか」

友人はオレにそう問いただした。オレはオレの書く文を誰かに認めてもらいたい、と純粋に願っている。それは確固たる事実である。ただオレは、
「認められたいから」
と素直に言えなかった。認められたいというのが願望というのは間違いない。ただ答えられないでいた。


自分が好きではないこと。例えばオレは転職経験者だが、前職の仕事があまり好きではなかった。
人間関係の善し悪しでも、仕事への意識は変わる。人間関係が良好な場合、仕事がつまらなくても辞めずに済んでる人は結構多いし、悪いものとは言えない。人間関係が良好の方が、不良なより全然良い。ただ、そういった人間関係などの要素を皆無にし、純粋に職業と向き合って、それでも仕事が好き、楽しいと言えるか、といった場合、その人数は極端に減少する。

そういった意味で考えた場合、仕事をつまらないという人は多い。つまらない仕事なんかには絶対誇りなんかもてないし、自信も生まれない。そんな仕事で成功し他者から誉め、認められて、人はそれでも喜べるだろうか。オレにはできないし、「ヲレ」はそんな環境を黙認しない。

話がズレたが、要するに「認められる」ことに人は憧れ、真の「認められる」の環境下に必要な要素は「好き」であることである。
だからオレは書くことが「好き」だから書くのであり、認めるとか、影響力とか、好かれたいとか、売れたいとか、そんなものたちは全て二の次の発想なのである。それくらい何かが好きで没頭できるというのは、素晴らしいなんていう安価な言葉では表現できないくらい絶大なものなのである。書く理由に「好きだから」以上の言葉はみつからない。それ以上の理由を知ってる人がいたら教えてほしい。

ただ残念なことに、好きであるなら趣味の枠組みから脱却しなくてはならない。これだから「趣味」という環境はチープで、曖昧で、ぬるく、面倒臭い。

趣味からの脱却。
それには努力が必要だ。そんなことは皆、わかっていると思うが、その労力は非常に大きい。