文科省

文科省に自殺予告の手紙が連続して寄せられた。前回は男で、今回は女らしい。
自殺は悪だとよく耳にする。もちろん自殺を避けるに越したことはないし、自殺までしなくても、と思ってしまう時がある。ただ、その辺は当事者にしかわからない苦しみや悲しみ、空虚感や絶望感があるのかもしれない。

以前どこかで
「自殺と暇は密接の関係にある」
みたいなことを書いた。未だにそれは1つの理論として成立すると私は信じている。しかし自殺の理由としてあげられる代表的なものは「いじめ」である。

「いじめはいけないことだからやめましょう」
とか、
「いじめがなくなる環境、教育をつくる」
などがよく言われる。個人的には、そんな台詞は聞き飽きたし、いじめる側がそれを聞いて納得してるなら、とっくにいじめなんかなくなっている。
私は決していじめを肯定するわけじゃない。いじめは相手のプライドや価値や理念や存在、全てをズタズタにする。ただ、これから先もずっと、いじめはなくならないだろう。いじめはどんな時代にも存在し、その伝統は長く、根は深い。

それにしても、何故人は便乗をするのだろう。今回、文科省に送った女は、前回の男に勇気付けられやったのだという。
自殺には勇気が必要なのだろうか。私にはわからない。自殺したいと思ったことがない。ただ、勇気は必要な気がする。自らを死に追いやるのは、どんなに酷いいじめを受けようが、どんなに金がなかろうが、死を目の前にした時、計り知れない恐怖と対面するに違いない。

「その勇気を何故生きる糧にしない」

という人がいる。
それはムリだと私は思う。生きていく勇気の型に死に行くための勇気の型は当てはまらない。
どちらが大きいとか小さいとかの話ではない。要するにその観点がナンセンスなのである。
ただ便乗はどうかと思う。何故マネをするのだろう。日本人はマネ好きな人種だが、何故死ぬことまでにマネをするのだろう。私にはわからない。当事者意識というものなのだろうか。

いじめによる自殺をなくすにはどうしたら良いだろうか。私には難しい。いじめはなくなりそうにないし、自殺にまで追い込まれるほど、いじめの質は悪い。
ただ、いじめの環境下にいるとするなら、とりあえずその環境から避けることだと思う。どこの学校に行ってもいじめられるのなら、学校なんか行かなくても良いと思う。学校に行かなくても教育は受けられるし、何より自殺せずに生きていける可能性が増える。現状がそうなのだから、登校拒否児が増えてもしょうがない。
生命を守ることだけに徹底する考えは、決しておかしな話ではないし、そういった考えの人、極端に、

「学校に行ったら、いじめにあって死ぬかもしれない」

そういう考えが先行しても、私は驚かないし、現代なら正答とも思える。