涙が溢れて明日が見えない時がある。

 時として、文章を書くことに疑問を感じることがある。
それは僕の安直な気持ちを安直にしか書けないという腹立だしさでも、つまらない文体を一層つまらなく書いてしまうこの無能さに対してのものではない。
「書く」という行為そのものに自己満足的な要素が充満していることに、多大なる羞恥心と答えのみつからない愚問を抱く、これらが底辺にあるもので、これら細かな事柄が気化し、抽象化し、僕の中でモヤモヤと漂っている。


 時として、「芸術は自己満足の固まりだ」と思うことがある。
多分この答えはあながち間違いではないと思う。
ただ大方、自己満足なる物質は他者からすると、敬遠され、愚弄し、場合によっては排除したいものでもある。
自己満足が、ただ単に自己の中にある欲求を勝手に満たすものであるのなら、他者には何ら影響を与えはしないが、ほとんどの場合、自己満足は他者に不快感を与える。

なぜなら、

自己満足は表面ににじみ出る。


僕は最近、過去の自分の作品を読み返している。
多分当時書いていた時は、それなりに懸命に書いていたに違いない。
それを読み返した今、僕はウンザリしている。
どんな文字も「自己満足」と書かれている様。
例えば、
「愛してる」
の4文字が、
「自己満足」
と僕の脳内で自動変換されている。
その文字自動変換スピードは、ウインドウズの文字自動変換スピードよりも早く、その「スピード」これが僕の中に存在する「羞恥心」を表すのだと思う。
僕の中に存在する「羞恥心」のレベルがMAXに達した時、僕の文字自動変換スピードは「テプコひかり」の光速を上回る。

「今日はドライブをした」
カチャカチャ。
「今日は自己満足をした」


「夜、湯舟に浸った」
カチャカチャ。
「夜、自己満足に浸った」


「朝、靴を磨いた」
カチャカチャ。
「朝、自己満足を磨いた」


朝から自己満足を磨いた日には、先行き不安な1日のはじまりである。


そして近い将来、僕は、

「株式会社自己満足」

とか何とかいう会社に勤める。

会社名的には悠々自適なワークスタイルを想像させ、前向きにその会社名を見てやれば、
「結構前向きな姿勢の会社かもしれないなぁ」
などと、前向きに前向きを重ねる意味不明な解釈だってできるかもしれない。

決算の時ですら前向きで、
「今期、我が社はマイナス五千万の自己満足でありました」
などと、少しでも「赤字」という後ろ向きワードにモザイクを仕掛けることができる。

結局、「株式会社自己満足」なんて会社は、運営2年目で倒産してしまうわけだが、
そんな「倒産」も自己満足の4文字で前向き思考なので、

「チョチョイのドン」(アンタッチャブルネタ抜粋)

なのである。



ツラツラとここまで書いてきたわけだが、結局のところ言いたいことは1つでありまして、
「今月中に短編小説をあるメディアに応募する予定であります」
僕の自己満足がどこまでメディアを満足させるかはわかりませんが……