暇論

最近気付いたことで、実はもっと早くに気付かなくてはいけなかったこと。


「暇は自殺者を生む」


多分、一般的に考えて「暇な時間」というのは、心身共に休まる時間、と解釈することが多いと思う。この解釈は、
「暇だから寝てた」
とか、
「暇だからテレビ観てた」
とかのリラックス、ダウナー系統のイメージに使われやすい。だから「暇」という言葉の根本には
「休む」
もう少し悪い言い方をすれば
「ダラダラしている」
というニュアンスがマッチする。
しかし、この「暇」という言葉、実はリラックス・ダウナー系統の言葉ではなく、シリアス系統の言葉なのである。



仕事を辞めて、約二週間程経過した。転職というアクションが、非常にネガティブなイメージを未だに含んでいる現代社会に、何となく流れに乗れてないな、という印象を持つのは私だけだろうか。現に転職雑誌や転職のサイト、そのCMが流出している。それは何故か?単純にそれを必要とする人たちが大勢いて、必要とする人が多数いた場合、必然とその関係でビジネスが生まれる。ビジネスという形にまで発展している転職を受け入れられない多くのおじさん、おばさんがいる。だが、それはしょうがないのかもしれない。何故なら、昔は転職という手段があまりにも少なかった。そして年功序列、定年制度が主流だった昔、入り口から出口まで、そこに属することが「善」であった。
自分を擁護するわけではないが、転職には多大なストレスがかかり、多くの労力を必要とし、経済が圧迫され、体力が必要であり、それを乗り越えた人間は多少なりタフになる。生きる上ではお金が絶対に必要で、お金を獲得するために必要なもののひとつとして、タフであること、は不可欠だ。


話がズレたが、転職活動中は仕事をしている時よりも、明らかに時間を確保できる。私は私なりにその時間を使うわけだが、自主的に忙しくしようとも考えていない。この転職期間中をハイペースで生活する理由がみつからない、よってそこまで高度なモチベーションは生まれないし、維持できない。だから私は「暇」と遭遇した。だが、その暇と遭遇した時、私はテレビを観たわけでもなければ、寝たわけでもない。ボーッともしていなかった。では何をしていたか?私は暇の渦中、

「考えていた」


考えるの内容としては、1+1=2ではなく、1+1=何故3ではないのか、みたいなこと。要するに回答不能。ただ、これを考えている最中、私は非常に恐い想像をした。


「この思考方法の最後には、必ず死が存在する」


答えのない疑問の終止形として「死」は存在する、と私は考える。そしてこう考えた。


「自殺者の中には必ず暇がきっかけの者がいる。」


忙しい者が忙しい最中、自殺することはまずない。思考のウエイトが忙しさに傾いているからだ。サッカーの試合中に自殺なんて考えないし、セックスの最中にだって考えないだろう。寝てる人は自殺できないし、テレビがおもしろければ自殺なんて考えない。


幸いにも私の場合、暇を感じながらも、死を考えていても、自殺には至らないという自信が保たれている。

「保たれている」


そう、自殺するとしないは、ある意味紙一重なのである。何故なら、暇を持たない人間はどこにもいないからである。場所、時間、精神状態、社会的立場、人間関係、このようなものと「暇」が、負のマッチングを成立させたとしたら、自殺をしないと言う断言は絶対にできない。


それくらい「暇」とは危険なスペースなのである。私たちが「暇」とうまく共存する、それが自殺しないひとつの方法かもしれない。