生と死

 今日は、僕の親父のお姉さん、つまり僕のおばさんですね。そのおばさんの一周忌に行ってきました。まぁ、朝から僕は憂鬱なわけであります。起きるの早いし、集まった親戚(多分親戚にあたる)の人たちとの会話にはついて行けないし。まぁ、おじさん、おばさんばかりだからしょうがない。草加の方にあるセンターに行ったんですけど、やっぱり御葬式などの行事は、何度参加しても慣れませんね。お焼香の前では必ず緊張する。何回頭下げるかわからないし、今日の僕は一体誰に頭を下げているかも定かではありませんでした。
 そんなこんなでお坊さんのお経が始まるわけですが、うちの親父はさっそく寝やがります。どこででもビッグな野郎です。うちの親父、寝るのが本当早い。3分あれば確実に寝ます。特技ですね。まぁ、親父の寝ている姿は見過ごしてやり、ふと顔を上げると、目の前には遺影が置いてあります。おばさん。おばさんはトイレで倒れてしまい、その際頭のうちどころが悪く亡くなりました。1人暮らしだったため、発見も死後数日経過していたといいます。孤独死。まぁ、事件性などは全くないのは一目瞭然ではありましたが、やはり規則として司法解剖を警察署で行ったといいます。
 お坊さんがお経を読み上げている時、僕の頭の中には「生と死」この2つのキーワードで一杯でした。「生と死」両者は一体僕らの人生において、どこらへんの位置に属するものなのだろうか。僕の中で3つの可能性を見い出しました。

1,「死」は「生」の中の一部にすぎない
2,「生」は「死」の中の一部にすぎない
3,「生」と「死」は、全く別々の存在である

 2のように、常に人生の基盤は「死」であると考えるのは、至極悲しく、空しく、暗い。あり得る話だが、僕はどうしても2を避けたい。しかし、3はありえない。我々は1と2のような生き方を強いられている。3のように、「僕は今生きています。だから今は生のエリアにいます。でも死んだら、向こうの死のエリアに移る予定です」ではないと思う。生きている以上、絶対に「死」を認めなくてはいけないし、「生」と「死」を生命の中に共存させておくべきだと思う。「生」によって「死」の存在は万人に認められるわけだし、「死」を万人が認めないのなら「生」の価値観などは存在しない。でも1と2の場合はどちらも「生」と「死」を生命の中で共存させている。僕の希望は1である。しかし、2を理解できなくはない。もし2の考えを強要されるものならば、容易く受け入れるだろう。何故か?僕はまだ「死」というものをリアルに認知していない。漠然、そう漠然としか考えられない。だから「生」の価値だって見い出しちゃいない。約20年間生きてきて、こんな様は愚かであるか。そうでもあり、そうでないかもしれない。僕はこの先もまだ「死」の存在を正確に受け止められないだろう。いや、まだ理解はしたくない。何故?死が恐いから。いや、死の恐怖などわかるわけがない。でも、僕が人生に終止符を打つだろう予測ができた時、その恐怖というものははかりしれないほど大きい。そして、絶望に近い空虚感に襲われるであろう。そう、生命において1番の恐怖は空虚である、と僕は考える。
  
 こんな問題を提供してくれたおばさんに、心から感謝申し上げて、今日1日に終止符を打つとする。