紋白蝶5

【現実】
 大学1年の冬、僕とトモコはスキーに出かけた。トモコと付き合って(実際のところ、本当に付き合っていたか、今になると疑問であるが)初めての旅行である。とはいうものの、ヒデオとユカリの2人もいっしょである。ようするに「ダブルデート」というものだが、僕はこれをあまり好まない、というよりも、嫌いであるといったほうが正確である。もちろん、旅行前に僕とトモコはこれについて言い合った。
「なんでいっしょに行くのが嫌なの?」
「何でと言われても、嫌いなものは嫌いなわけだしさ。」
「じゃあ、あなたの目の前にニンジンがあって、それを食べなきゃ人類が滅亡するとしても、あなたは嫌いなものは嫌いだからと言って、人類滅亡を受け入れるわけ?」
「いや、それなら食べるかもしれないけど、その質問てなんか変じゃない?」
「とにかく、人類滅亡を阻止するためにもスキーに行かないと」
と、おかしな話し合いの結果、行くこととなったのである。

 北海道のスキー場に行った僕たちだが、とにかく白を基調とした風景であった。まるで洋画に出てくる上流階級のお嬢様が、自分の部屋のベットに飛び込んだ際に、羽毛布団から羽が沢山舞いだして、部屋中一面真っ白に覆われたみたいであった。いや、それよりも白い。ロープウェーに乗って辺り一面を見回したが、やはり白に覆われている。空は白く、太陽も白い。そして隣に座るトモコも、まるで真冬に生息している紋白蝶の如く白かった。
「季節外れの物っていいよね。」と僕は言った。
「例えばどんなもの?」
「真冬のヒマワリとか、真冬の紋白蝶とか、真夏の雪とか」
「でも真夏のこたつは嫌ね。あと真冬のクーラーも嫌。真夏にダッフルコートなんて着ていたら、暑すぎて溶けてしまうかも。」
 1番上まで上り、僕は斜面の手前で座っている。するとトモコは颯爽と滑っていった。スキーは僕よりトモコの方が断然にうまい。どんどんトモコの姿は遠ざかって行く。このままどこまでも行って、もう2度と会えないのではないかと思った。まるで蜃気楼に飛び込んだトモコが、そのまま蜃気楼の世界へと行ってしまう感覚を覚えた。どんどんトモコは小さくなっていく。そして紋白蝶となり、点となり、消えた。僕は現実の世界に1人残されてしまった。僕の背後に影はなかった。



紋白蝶 最終話
【現実】
 春の訪れ、大学の新学期が始まるころに、トモコは死んだ。原因はよくわからなかった。しかし死んだ。いや、死んだというより、消えたのかもしれない。僕の前から消えただけで、死んではいないのかもしれない。トモコが消えるとき、僕から2つの物も消えた。1つはミスタータナカ、そしてもう1つは影である。僕の存在を証明してくれる3つは全て同時になくなった。僕はこの世にたった1人取り残されてしまった。いや、存在が皆無になった今、僕もこの世には存在していない。生きているが存在しない。そして僕に残された物、それは「忘却への恐怖」だけであった。トモコの記憶はパラパラと欠けていく。トモコの目を忘れ、口を忘れ、耳を忘れ、鼻を忘れる。最後には顔の輪郭がぼやけて、静かに消えていく。でも僕は必死になってその欠片を拾おうとはしなかった。それは諦めに等しかった。
 翌日、ぼくはカメラを買った。カールツァイスレンズ使用の50万円もするカメラを買った。無我夢中で僕はシャッターを押す。僕の存在を証明してくれる「何か」を僕は模索しつづけていた。ふと庭先に目をやると、春の木漏れ日を花の上で浴びている、一匹の紋白蝶がいる。僕はそっとカメラを向け、シャッターを押した。シャッター音とともに、紋白蝶は空高く舞い上がる。それを目で追う僕の目に太陽の光がさしこんだ。瞼を開けると、もうそこに紋白蝶の姿はなかった。


                      紋白蝶   完