ヒューマンズ・コミュニケーション持論

 先日、友人のA君と深い話をした。議題はコミュニケーションについて。A君は簡単に言うと、「共有する時間が長いほど、その人への信頼、愛着は高まるのでは」という。それはもっともな意見だろう。共感しました。しかし、これだけではお互いがお互いを慰めあうというか、共感でこの話の幕が降りてしまうので、あえて僕は対抗物を提供する。と、ここまで書いたが、実はこんなことを今日は言いたいのではない。コミュニケーションの話だが、それもまだ初期のコミュニケーションであろう「出会い」の重要性について述べたいのである。
 「出会い」これはコミュニケーションの中でも極めて初期のものであると僕は思う。初対面の者に会い、フィーリングで相手を好いたり好かなかったり、でも話してみたらフィーリングとは違う一面を見れたり、それが友情の道に進んだり、その場しのぎの出会いであったり、もしかしたら恋愛感情に発展したり、結婚に繋がったり。まぁどうであれ、出会いがなくてはその先のコミュニケーションもあり得ないのだが、僕の場合、出会いは神聖なものであり、そして発見することが困難なものである、と考える。
 まぁ、こんな表現をしてしまうと出会いは運命的な物というドラマのような考えを持つ者もいると思うが、(いや、実際のところ出会いは運命なのだが)そんな奇跡的な考えはせずフランクに思ってくれてよい。例えば「出合いは運命なのだけれど、それは僕達が生活する中の至る所に存在する」とでも。
 そう、出会いは至る所にあるのだけれど、間違っていけないことが「至る所にある」と「安易な物」とは違うということである。まぁ僕の中で安易な物とは「合コン」が代表的なものなのですが。もちろん、行ったことあります。が、あれほど疲れる出会いはないのでは、と最近考えてしまいます。なんか「人工的に作られた出会い」(事実、人工的であるが)終わった後がすごく空しいんですね。もちろん、合コンを否定はしません。楽しい人には本当に楽しいものみたいだし、そういう出会いを認められる価値観やキャパを持ち得る人はたくさんいます。僕はそんな人を軽蔑しないのはもちろんのこと、逆に僕がおかしいのかなぁ、と思う時もあります。でも僕の場合、出会いはもっと神聖なものであってほしいのです。(何度もしつこいですが、合コンの出会いが神聖ではないと言いたいのではありません)日常にありふれる神聖な出会い。僕はそうであって欲しい。日常のキッカケを大切にしたい。キッカケとはドラマ的に言えば落とし物を同時に拾って、手と手が触れちゃうみたいな感じだが、まぁ現実的に言えば入学式、誰も話す相手がいない中、隣の人とぎこちない会話が始まる。「知り合いが誰もいない環境」は出会いのキッカケと言っても過言ではない。
一目惚れ、という言葉があるが、これもキッカケとなるだろう。一目惚れの出会いが次のアクションの原動力となる。決して人工的産物ではない。
 人工的産物、と言えば「お見合い結婚」もそうであろう。そしてこの「お見合い」に抵抗感を持つ者は結構いるのではなかろうか。「恋愛結婚がいい」とか「まだ結婚はしたくない」とか。でも明らかに前者の場合、お見合いという行為自体に抵抗感を出している。これは多かれ少なかれ、人工的産物である「お見合い」という行為で、一生物になるだろう結婚を決めたくはない、という感情が働くのかもしれない。 
一生。合コンでの出会いは一生になる可能性は極めて低い。要するに結婚までは道のりが長いから、変なプレッシャーを感じずにすむ。遊び感覚でできる。もちろん、合コンでの出会いから恋愛に発展する場合があって、その恋愛が遊びであるというわけではないが。
 またまた伝えたいことがうまく伝えられていない。まだまだ勉強しなくては…