結果論

 今日11月20日は、全国高校サッカー選手権大会東京都大会決勝である。47都道府県で予選を戦い、そこの頂点に立った者のみが全国大会へ駒を進める。そして今日、都大会決勝が最後の予選地区となる。何百という高校がひしめく東京都は、全国でも有数のマンモス地域と呼ばれ、そこを勝ち抜くのは本物の実力、そして運が必要となる。
 
 今回このようなことを書くに至ったきっかけは単純で、僕の母校、修徳高校が決勝に進んだからである。とはいえ、知っている者もいると思うが、僕は過去の功績(最近になりやっと「功績」と呼べるようになった気がする)について語ることを至極嫌う。つい最近まで僕は
「サッカーで飯を食えなくては、結果がどうであれ意味がない。極端な話、地区予選1回戦敗退であろうと、そいつがプロとしてやっていけるのならば、全国で優勝してもそいつの勝ちである。」
と思っていた。勝負へのこだわりなのか、それとも依怙地をはっていたのか。その辺は曖昧にしたいし、それでいいと思う。こんな葛藤も1つの青春なのだと思うから。

 それにしても、母校が決勝に行っただけで、ここまで心揺るがされる物とは思わなかった。様々な風景が思い起こされる。練習は正直辛かった。自衛隊の訓練を体験したことはないが、まるで自衛隊の訓連さながらの練習、それくらい走らされたし、筋力トレーニングをさせられた。その練習メニューを、科学的に見るトレーナーがいたのならド肝を抜くだろう。それくらい悪い言葉で言うのなら「イカれた」練習だった。国立競技場と等身大のグラウンドで、2時間ぶっ通しで3対3をやらせる高校は多分ない。

 まぁ、そんな練習風景を回想したりもしたが、何よりもドラマチックな出来事、それは小学生の頃からの親友「W君」が、敵として同じピッチに立ったということである。彼とは小学校の6年間、共にボールを追い続けた中だが、これまた「イカれた」ほどサッカーをしていた。丸一日サッカーをしていた日も数えきれないほどである。残念ながら僕は私立の中学に行き、彼は地元のクラブチームでやっていたので、彼とは6年間しかいっしょにできなかったが、小学校の時、地元地域では「名コンビ」としてささやかに知れ渡っていた(と思う)

 そして事件は高校3年の夏に起こった。W君は東京都の國學院久我山高校に進んだのだが、彼の高校がインターハイ、全国2位という結果を残したのだ。そのころ僕は都大会予選敗退のため、地獄の強化合宿へと突入していた。正直、次元の違いを痛感せざるをえなかった。まるで彼は異国の地にでも踏み込み、僕は現実世界の矛盾と対面しているかのようだった。僕はその現実世界から彼に対する賛美、敬意をたたえ、また同時に行き場を失った、形の曖昧な憤慨を残した。

 無心で練習を続けた。もちろん、毎日がその気持ちだったので、その境界線は定かではないが、多分いつもよりも無心でやっていた。そして焦った。
「俺も全国に出たい。出て自分の名を売りたい」
これだけだった。
W君は最高ではないにしろ、最良の結果を残した。俺は最低の段階にいる。失う物は何もなかった。あとは勝ち取るだけだった。
そんなこんなで僕らに最後の冬が到来した。高校サッカーで一番注目される全国高校サッカー選手権大会。夏、全国準優勝した國學院久我山でさえ勝ち取りたい全国への切符。そして皮肉なことに、修徳高校國學院久我山高校、僕らは同じグループに入り交じった。
 國學院久我山は予選、危なげない順調な勝ち上がりで決勝まで駒を進める。一方、國學院久我山とは対象に、修徳は全てが1点差のゲーム。準決勝はPK戦という苦戦しながらの勝ち上がり。戦前の下馬評でも断然、國學院久我山有利の予想である。会場である西が丘サッカー場のトイレでのこと
「今日の修徳久我山、どっち勝つと思う?」
「余裕で久我山でしょ〜」
「だよなぁ〜久我山の大勝だろうなぁ」
僕の中で悔しさが込み上げて来た。しかし残念なことに、僕自身、負けを予想していた。それほど國學院久我山は偉大で強大であった。

 試合の内容はここでは書かない。簡単に言うのなら2対1で修徳が勝った。しかし前半は9割久我山がボールキープ。後半はなんとか4割ほど修徳がボールキープできた感じである。僕らが全国に出場するのが、何となく悪く感じた。久我山が出ればまた決勝に勝ち進めたかもしれない。しかし若いながらも勝負の厳しさ、そして結果論の残酷さが身にしみてわかった。

 今日どちらが勝つにしろ、誰かしらが結果論の残酷さを痛感するに違いない。