自虐のススメ

今日ヒマラヤ山脈を登山中、滑落死したという冒険家のニュースが流れた。
たまにグレートジャーニーとかいう冒険家のテレビ番組を見ることがあるが、基本的に冒険家のほとんどは「死」を覚悟していると僕は思う。
冒険は「男のロマン」とか、そういった類のセリフをよく聞くが、その「男のロマン」を獲得する代償として、「死」は存在すると思う。そして彼らはその「死」のリスクを最小限に抑えるために、日々のトレーニングをこなすのだと思う。


今書いている小説には、1人の女の子と1人の男が登場する。
女の子はリストカッタ−なのだが、リストカッターを書くのは非常に難しい。なんせモデルもいないし、自分がやっているわけでもない。ネットに公開されるリストカットは(リストカットネット規制されていない)非常に凄惨な写真ばかりで、ひどさのあまり目を背けたくなるような写真ばかり公開されている。

男の方は比較的に書き易い。なんせモデルは「僕」であるから。
もちろんその主人公の男は「脚色された僕」である。そしてこの「脚色された僕」のキャラクターのベースとなる要素は「死」と「覚悟」と「冒険心」なのである。


結局のところ、リストカッターの女の子はともかくとして、男の方は僕の理想像なのである。
「こう生きられたらカッコイイな」
という理想像。


2日後に「社会人になる」という、クソったれな日がくる。
社会人になった時、上記の「死」「覚悟」「冒険心」の要素獲得はなお遠いものとなりうる。
とはいえ、学生でいたってこの3つの要素は獲得できないだろう。
この3つを獲得した時、人はものすごく強い生命体になると思う。ただ難しい。
「死」と隣合わせのライフは送れないし、「覚悟」を据える強さも持ち得ないし、「冒険心」を持てるほどの勇気がない。


そう。僕はものすごく弱い。


だから「社会は諦めである」などと強気な態度で言ってしまう。
「社会人として生きる」と、諦め加減で社会を受け入れる。「社会人として生きなくてはいけないんだ」と諦めれば、社会のあらゆる矛盾も「諦めるんだ」と受け入れられると思っている。
上司へのよいしょも、サービス残業の現実も、加齢臭の到来も、仕事への矛盾も、全て諦めてしまえば受け入れられる。


やれやれ、情けない。


そう、僕は情けない。社会を諦めで片付けようとしている。
でも無理なんだ。
諦めは、まるでぬるま湯に浸かっている感じの居心地よさを感じる。
だから、せめて、フィクションストーリーの中の自分は諦めという感情を捨てた人物にしたい。


僕は弱い人間。僕は情けない人間。僕はズルイ人間。
そして社会に希望を見出せない愚かな人間。