ナルシストも悪く無いと感じた帰り道

今日は久々にまともな文を書こうと思っている。
最近まともな文を書いていない。とはいえ、別に適当にタイピングしているわけでもないが、
なんかあらたな造語を作ろうと模索する俺がいる。だから今日はカタイ内容を書きたい。

最近、家路に向かう際に降りる駅がA駅ではない。K駅を使う方が多い。
A駅で降りるには必然的に満員電車を利用しなくてはいけないので、それを避けるためにK駅で下車する。K駅付近は何も無い。あるのは土手と国道くらいで、黄昏れスポットとしては多分最適だろう町並み。
そんなトコを歩いていた俺は、運悪く車にひかれた。
手に持っていた傘は俺の遥か頭上を舞い、俺は身体を一回転させ水たまりへと倒れ落ちた。
途中のスーパーで買った缶ビールは俺の指先から離れ、落ちた衝撃で炭酸を吹き上げる。
一日の楽しみである俺の缶ビールは、水たまりにジワジワと流れ出る。
倒れた目先で1本の缶ビールが絶えまなく流れ出る様を見た俺は、一日の楽しみが缶ビールであることに切なさを感じるが、でもそれは1つの事実であるために、なんとも言えない虚無感に心を痛めている。
だがその矢先、俺の脇腹には1本の鉄の棒が通ったかのような激痛が走り、意識はだんだんと遠のいて行く。意識が遠のくことに少なからず恐怖を覚えるのだが、同時に痛みの感覚も薄らぎ、目の前は真っ白になる。完全に目の前を真っ白にした時、俺の脳内ではフラッシュバックが始まる。さほど内容は薄くないだろう俺の22年間は、ほんの数秒で再生された。そして俺は降りしきる夜の雨によってできた水たまりの上で、息を途絶える。缶ビールも全て流れ出た。


こんなことを帰り道に想像していた俺は、ウソにも聞こえるだろうが、少し泣きそうだった。
いや、多分泣いていたと思う。
俺は確信した。やっぱり俺は自分がかなり好きなんだと思う。
いや別にこの「好き」がナルシスト的「好き」と解釈されようものならばそれでも良いが、自分の最後を真面目に想像すると泣ける人は多分俺だけじゃないと思う。
「真面目に想像」とは「リアルに想像」ということであって、例えば戦争で死ぬ自分なんていうのは戦争を体験していない俺たちにはリアリティーに欠ける想像であって、地震とかの天災で死ぬのを想像したって、多分それは自分の最後よりも他人の最後に感情が動いてしまう恐れがある。
だから多分、交通事故のようなすごく個人的な領域での最後を想像すると良いと思う。多分、泣けると思う。泣けなくても、悲しくなると思う。そして自分という存在を再確認すると思う。
実際に俺は再確認をして、結局
「自分好き」
に辿り着いた。これは健全な自己愛心だと思う。
今の俺は強気に「ブサイクだけど、アグレッシブに生きようとしてる俺が好き」と言える。