神の降臨を期待する日々

約1週間ぶりの更新をしている。
「仕事が忙しすぎて睡眠時間が平均2時間くらいしか取れない。」
というのは嘘で、少し小説の方にウエイトを置いている。
それにしてもブログという自我表現のたまり場は何と素晴らしいことか、
とつくづく思う。
小説にウエイトを置いていたとはいえ、肝心の文字数は全く増えていない。
一時期、milosさんが「主語」について書いていたと思う。
まさに今、俺はその「主語」の壁に悩まされている。
ストーリーも主人公の人格もクライマックスのシチュエーションも、俺の中では想定済みなのに、
どうも「主語」の扱いがうまくいかない。
今回の作品は「第三者的視点」(milosさん的には神の視点)で俺は書こうとしている。
要するに「私、俺、僕、ワシ、あたい」などの言葉は作品中には使えない。
(もちろん主人公のセリフであるなら話は別だが)
使うとしたら「彼、彼女、苗字、名前、A君、B君…」そんな類の言葉である。
よって俺は作品中の主人公になりきってはいけない、と思う。
物事を観察しているような視点が必要である。でも「観察」ではいけない。
あくまでも観察している「ような」である。
完全なる「第三者」として書こうものなら、その作品はとてもお粗末な物になる、
と俺は思う。
その「なりきってはいけない」「でも全くなりきらないのもいけない」という力加減が
とても難しく歯がゆい。
俺は「完全なる筆者」となれる力が今欲しいと思っている。
「完全なる筆者」は、作中にはシャシャリ出てはこない。アウトサイドで物語を左右している。
でも筆者であるために、作中の主人公を完全に掌握できる。もちろん第三者でありながら。
今の俺にはまだできない。どうしても筆者から主人公への転身を防ぐことができない。
まぁ、以上のことを克服したとしても、俺の作品はかなりお粗末な仕上がりになるだろうが…
と、謙遜してみたが、事実そうなる恐れが大きい。


ワードの前に座っている俺は、多分かなりナーバスだろう。
このブログで書くことがとても楽しい。何せフリーで気楽で無限大だ。
言葉選びが大事だと、小説を通じて痛感した。
話す際の言葉選びももちろん難しいが、俺は書く際の言葉選びのが今は難しく感じる。
書き言葉の1つ1つに「格好」をつけたがる。
「書き言葉に格好をつける」ための時間の猶予は、話言葉に比べ長い。
言葉を選ぶ時間は楽しく、難しく、期待し、不安し、幸せで、辛い。
最近アジカンの「リライト」をエンドレスで聴いているのも、原因はここだと思っている。