ドウデモイイモノ

最近、「ドウデモイイモノ」がやけに俺の目や耳に入る。
誰と誰が結婚して、誰と誰が別れて、誰が誰を好きで、誰が誰を嫌っていて…
正直勝手にやってくれ、これが俺の切実な心境である。
週刊誌なんかが良い例で、あれほど下等で無意味なメディアはあっていい物なのかと思う。
ただ、多分あって良い物なのだとも思う。
結局のところ、それを必要としているユーザーはいるわけだし、週刊誌の売れ行きは良いらしい。
いや、週刊誌に限ったことではなく、ワイドショーなんかでやっている芸能ニュースも同等だろう。
なんだってそんな他人のプライベートを知りたがるのだろうか。
俺は俺のことだけで手一杯で、そんな他人事に興味を示す余力はあまりない。
こんな情報過多な現代にした「文明の利器」をたまに恨むが、
現代社会の簡略化を築いたのも「文明の利器」なのも事実である。
そして未来に進むしかなく、文明の発展をするだろうこの先、
私たちは「情報の差別化」を早急に確立させなくてはいけないと思う。
「区別」ではない。「差別」だ。

「無知は罪である」
この言葉に俺はひどく共感するわけだが、「ドウデモイイモノ」を知らないのは決して罪ではない。
「ドウデモイイモノ」は所詮「ドウデモイイモノ」にしか過ぎない。
それでも「ドウデモイイモノ」を欲しがる人々は後を絶たない。
多分、かなり暇なのだろう、と俺は切実に考えている。
別に良いのだ。
俺の考える「ドウデモイイモノ」を欲する心を持っても問題はないだろう。
これは価値観の問題だ、そう言われればそれまでのことなのである。
そう、他人の価値観はなるべく尊重すべきだ。


何が言いたいのかうまく整理がつかない。
ただ、最近忙しさを肌身に感じている俺は、限られた時間を有意義に使うことを心掛けている。
「ドウデモイイモノ」をうまく欠落させていかないと、その心掛けは崩れ、
終いには忙しさにストレスを感じる恐れがある。
忙しさを恨むのは惨めなことと思っているここ最近、
「ドウデモイイモノ」を差別できる力をつけることが、この先、吉と出るか凶と出るかにまで発展すると思う。