「ドウデモイイモノ」の舞台裏

まずは前回の「ドウデモイイモノ」にコメントをくれたakiさんとyamatoさんに感謝を申し上げたい。
実は前回の「ドウデモイイモノ」で俺がやりたかったことは、
「ドウデモイイモノ」に対する見解ではなく、
「価値観を揺るがされることに人はどう感じるのか?」
ということを知りたかったのである。
ただ悪く思わないで欲しい。
なぜなら前回の見解と俺のコメントは、完全なる俺の価値観なのであるから。


人の価値観はやはり千差万別だと確信した。
結局、俺の考える「ドウデモイイモノ」と、akiさん、yamatoさんの「ドウデモイイモノ」は、若干の違いがあることは事実であった。ただそのような結果が健全だとも俺は胸を張って言える。


前回のテーマも含め、俺は時々かなり挑発的な文を書くことがある。
それは単に読者を「挑発」することが主ではない。いや、俺が書く挑発的な文に対して、俺自身が興味を抱いていない。「挑発」そのものはどうでも良いのだ。
では何を求めているのかというと、


「俺の価値観が他者にはどう思われるのか」


これに尽きる。
これは俺の考えだが、自身の「価値観」をシンプルに、それで安易な形にならないよう、具体的にではないが、正確に他者に知ってもらうには、「挑発的な文」に自身の「価値観」を組み込むことが必要だと思う。生温く、優しく、同調を求めるような文に自身の「価値観」を組み込んでも、読者のストレートな俺の価値観への感想は聞けない。そして周りの罵倒や批判が恐いから挑発的な文に自身の価値観を組み込むのは嫌だ、と思うのなら、そんな自身の価値観をこんな「実験的」な感じで公表してはいけない。
自身の価値観は大事にすべきだ。
ただそれでも俺は価値観を公表した。
あの文は真の俺の価値観だと思う。
だから期待外れなコメントを書かれてしまったら、相当俺はヘコんだと思う。
それくらい実は期待と不安で一杯であった。
だから真正面からコメントをくれたakiさんやyamatoさんには感謝しているのである。


反対なニュアンスを含んだコメントが来ると思っていた。
批判も覚悟していた。
ただそれは俺が求めていたもので、そうでなくては「挑発」の意味がない。
ただ、俺はそんなコメントを見てこう思った。


「価値観を刺激されると不安定になる」


求めていたとはいえ、やはり価値観をさらけだし、それを刺激されると人は不安定な心境に陥る。
そして慎重になる。
俺はakiさんにコメントを書いた時、(yamatoさんごめんね)慎重に言葉を選んで書いた。
こんなディープな話へのコメントに対して適当に返信するのは、時として周りから偏見される。
そして言葉選びによって疲労感を感じた俺は、後のコメントすら書けない有様であった。
日常をそのまま書く一般的な「日記」よりも虚構や思想を書くことを好む俺なんかは、もっと言葉を選ぶべきだと感じる。


話を結論へ。


結局のところ、俺は自分のチープな価値観を世間様に公表して、その様子をおどけながら伺っていた、全くバカでアホで小心者な単発野郎なのである。
なんか前回と今回の文をここまで書いて、かなり反省している俺がいる。
全く救えない野郎だ。
価値観なるもの、そんな簡単に書くものじゃない。