「認める」の結末

今日の帰宅途中の電車の中で、ふと俺の欲求が何故か「牛丼が無性に食べたいシンドローム」に侵されてしまった。
こうなってしまった時の俺の両足は、俺自身に有無を言わさず「丼」という字のつく店に動き出してしまう。
一杯350円の至福に赤く染まった紅ショウガを「ガッツリ」改め「ぐっちゃり」盛ることで、幸せを確信した俺は、至って小市民だと悟らざるを得ないわけだが、ただ、俺の右斜め前の美人さんも俺と同じ350円に軽く紅ショウガを盛っているのを見て、幾分救われたわけで。
そして俺は、この350円の小市民フードを食してこう思った。


「認めるって大事だな」


多分以前までの俺は、いつ如何なる時にでも、牛丼のような小市民フードを食した時に、
「何俺はこんなヒモジイ物を食ってるんだ」
と思っていたわけである。
ただ今日の俺は結構な前向き野郎で、小市民フードを食して、そんな自身を認められたのである。
別に美人さんが同じ物を食していたわけだから、というわけではなく、ただピュアに
「こんな俺もありかな」
などと。


現代において一番難しい解釈の1つに、
「認める」
という言葉が確実に含有していると俺は思う。
プータローとかニートとかパラサイトシングルとか、そんな人たちが現代には沢山いるみたいだが、
そんな人たちのポジションは別に俺にとってはどうでも良くて、とはいえ、いつ俺がそうなるのかもわからない。
ただ、そうなった時に自分が自分の位置をしっかり把握して、その位置をしっかり「認める」必要は不可欠であると俺は思う。


就職活動に失敗した一般学生。
「超一流企業にトコトン落ちて、結局どこの会社にも就職できなくて、でも大学は卒業していて、中途採用も面倒臭いからとりあえずバイトをやっていて、だから今の俺はプータローです」
俺はそれはある種、最低限のマナーなのではないかと思う。
「何かよくわからんけどプータロー」
という奴に限って結構厄介者が多い気がする。


多分「認める」に必要なのは「プライド」を抑制することにあると思う。
別に「プライド」を捨てろというわけではない。
「プライド」を捨ててしまうバカは今の日本だけで十分だ。
ただ、日常の「認める」「認めない」のレベルに関わってくる「プライド」のそのほとんどが「チンケなもの」と俺は思ってしまう。
何故人はそこまでプライドを簡単に、しかも安っぽく持ち出してくるのだろうか?
チープなプライドなら、いっそのこと捨ててしまった方が良いのかもしれない。
ただ一言言うが、今の日本はチープだけでなく、ものすごく大事なプライドまで捨てている。


牛丼食いながら、こんな固いこと考えていたのは多分あの店で俺しかいない。
店を出た時に、完全なる至福を牛丼で俺は手に入れたことを認めた。
あの、牛丼を豪快に食べる美人さんが、もし俺と同じようなことをあの店内で考えていたら、
俺は、
「俺、今、牛丼でも至福を感じたと認めます!そしてあたなの存在に意識が行っていたことも認めます!」
とカミングアウトしていたに違いない。
まぁ、そんな冗談は置いておいて、
「認める」
そんな悪いものじゃない。
一度お試しあれ。