「邪道」について

「葉巻き」と「タバコ」の違いを言えと言われたら、読者たちは答えられるのだろうか?
俺にはその質問を答えられる自信がある、いや、あったが正しい。
「葉巻き」を吸う男は限り無くダンディズムを意識しているメンズ、いや、アダルツであり、
そんなアダルツたちは葉巻きから舞い上がる煙の香りを楽しむ。これは一種の娯楽であろう。
そう、俺の解釈では「葉巻き」は「プレイ」なのである。
パチンコでも競馬でもビリヤードでもポーカーでもない、極めて大人な「プレイ」だ。
「タバコ」はというと、これはいつの時代でも不良少年たちのバイブル的代物であり、
「バイク」「酒」「女」そして「タバコ」は、以後100年経過しても変わることはない、とは言えないが、そうであってほしい気がする。
風邪をひくとタバコを吸うのがしんどい。でも健康体であればタバコをバカバカ吸う。
一種、タバコの本数は健康のバロメーター、というのは喫煙者の明らかな正当化であって、
でもそんなイイワケの仕方も少なからずアウトローだ。


上記が俺が解釈する「タバコ」と「葉巻き」の相違点である。
いや、くどいようだが相違点で「あった」
俺は夕暮れ時のKSJにある商店街で見かけたバカ野郎を今でも許さない。
そいつは俺から約30メートルほど向こうから悠然と女を連れて歩いてくる。
白のタンクトップにジーパンを履き、足下を下駄で固めるという、
若き中村雅俊もビックリなバンカラ野郎なそいつは、迷いもなく商店街を女を連れて歩く。
俺はそんなバンカラ野郎がもし知人なら、タンクトップの片部分を思いきり引っ張ってダルダルに
伸ばしてやるが、他人なら許す。いや、今どきそんな格好をする他人の彼は正真正銘の「神」と俺は認める。でも少なからず、俺の知人の中に「神」はいらない。「神」は傍観して楽しむ異物だ。


ただ「神」は調子をこきすぎた。
口元を見れば、紛れも無く茶色の紙で巻かれた「葉巻き」をくわえているのである。
外で葉巻き、商店街で葉巻き、バンカラで葉巻き。
思わず俺は目を疑って、コントにありがちな「2度見」をしてしまった。
いや、それはウソで、正直言えば「5度見」をした。
しかもあり得ないことに、そのバンカラは葉巻きの煙りをこれ見よがしに吸い込んでいた。
「葉巻き」の香りも外ではこもる場所を失い、行き場所が定まらない煙たちは、しょうがなく、
隣の女の顔目掛けて飛んで行った。
その女はむせていた。


俺の「葉巻き論」を根底から覆したこのバンカラ野郎のおかげで、俺はその晩、どうしようもなくなって
途方に暮れた。
悩んだ挙句、俺は「タバコ」を「葉巻き化」してみたのだが、それはただ臭いだけで、
そんな臭いとバンカラ野郎が忘れられずにその晩は枕を濡らした。


俺もそろそろ始めなくてはいけない時代に突入したのだと思った。
「葉巻き、タバコ化シンドローム
是が非でも阻止したいシンドロームなのだが、なんかそんな「吸い物革命」もリベラルのはじまりに思えてしかたがない。
ただひとつ、俺は声高にこう言える。
「葉巻きタバコ化、まだ早い」
「イジメ、かっこ悪い」
「葉巻きタバコ化、かっこ悪い」
最近、葉巻きがアスベストより恐ろしく思えるのは俺だけだろうか。