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今私は自分の寝床にいる。携帯電話から更新することが増えた現在、多少なりとも文字を打つのにやりづらさを感じるのだが、思いついた時にすぐ書き込めるという利便性に私のモティべーションは救われている。

「おもしろい文章」とは何かが自分の中で疑問視されることがある。
「この本がおもしろい」
そう言われる、書かれる、薦められるといった物を、私は何の抵抗もなく読む。「これは良い曲である」
も同様に聴く。
ただ、全てが全て読むわけでも聴くわけでもない。始めの1行で投げ捨てる書物もあれば、前奏で「OFF」される曲もある。私はそれで良いと思うし、強ち間違ったことでもないと思う。

「選択」をしない人が多いと私は思う。


人がこうしたから、人がそういうから、前例がこうだから、そうしました。


私は12年間ほどサッカーをしていた。数あるスポーツの中でも、サッカーは流れや状況に対応する能力を非常に要する競技と私は思う。野球にはタイムがあるし、競技進行にも間隔がある。バレーボールもタイムが何度かある。バスケットはどちらかというと、サッカーに近い。いや、サッカーよりも、かもしれないがバスケットに関してはあまりよくわからない。
要するにサッカーでは、45分間、流れの早い遅いはあるにしろ、止まることがない。選手交替の時でさえ、FWはゴールするためのポジションを探ろうと動くし、DFはその選手を警戒し、最高のDFポジションを探す。そして、サッカーほど「個人」と「団体」という考えの間に矛盾が生じるスポーツはない。それを大いに物語るのが、「キャプテン翼」である。あの漫画ほど個人を特化した団体スポーツ漫画はない。何せ、イレブン全員に得意技を持たせているのだから。

話が脱線した。
とにかく、サッカーは団体スポーツでありながら、個人の「選択する能力」が非常に問われる。コーチが試合前に指示をしても、ピッチに立てば自分で選択をしなくてはならない。野球のようにコーチからサインなどはないし、ベンチからの声は歓声によって聞こえない。目の前の敵をどう潰すか、それがメンバーに残るため、そして勝つための手段であり、プレーの選択を誤れば、自分が潰され、負けに一歩近づく。私はそういう瞬間的な選択を、練習と経験で培ってきた。そして瞬間の選択を楽しんだ。

「やるかやられるか」

これほど楽しい瞬間はない。

私が思うに、その多くの者が「選択」を苦しいものと解釈しているような気がする。そして誰もが選択に長い時間をかける。そしてその時間は吟味のための時間ではなく、大抵が選択を避けている時間である。

選択物の種類によって時間のかけ方は違う。ただ、冒頭で書いたシチュエーション(薦められた本、曲を全て試すか否か)の場合、そういった早いレスポンスは大事だと私は思う。性に合わない物、価値観にそぐわない物は、投げれば良いし、OFFにすれば良い。書物や音楽などは、別に無理して窮屈な思いをして読んだり聴いたりする代物ではない。選んだ物を読めば良いし、選ばれた物が読まれれば良い。それなのに、価値のわからない(知りたくもない)曲や本を試し、理解しようと無理に聴き、読む。選択をせずにダラダラと読み、聴き、それをあたかも知ったかのように振る舞い、自身の得た教養、情報と「錯覚」する。そんな奴はただの馬鹿だ。合わない物だというのに判断を怠り、それを除外しないが故に、興味もないものを読破して読んだ気になる。それは選択することを放棄した、ただのマシーンだ。そいつは犬以下だ。犬だって選択はする。食えない物は避ける。

選択をしない者は生きた屍である。その人は死ぬことすら選択できないのだから。だから、そうならないためにも、限りなく続く選択の道を、私は死ぬまで歩もうと思う。