タバコ革命

俺のタバコデビューは、大学に入学してからだった。
俺が思うに、タバコの銘柄にうるさーい時期というのは、大学生の頃だろう。

「高校生はどなのよ?」

と言われるかもしれないけど、実際高校生もかなり銘柄にこだわる。しかーし!俺が高校生の頃、周りの人たちは、銘柄うんぬんより、

「俺、吸えるんだぜ!」

の猛アピール姿勢が強く、銘柄は二の次、みたいな。そして、タバコを知らない頃の俺でも、あるヤツが「わかば」を吸っているのを見てなんだか可愛そうになって、何故かその「わかば」で不良してるそいつを、俺は好きだった。

「不良初心者マーク」

そいつは卒業するまで「わかば」だった。

タバコを吸わない人は「ショートホープ」という銘柄を知っているだろうか。「ショッポ」と言った方が伝わるかな?俺がタバコデビューしたての時、その「ショッポ」にはマジでビビッた。なんせ自販機の値段の横に「2箱」って書いてあるんだぜ!もうその頃の俺なんて、

「ショッポすげぇ!ってかJT本気かよ!まぁまぁ、ショートだからって、そんな頑張るなって、JT

そんな「バカ上目線」という、新種の地下鉄路線みたいな目線で俺はJTを褒めちぎった。そしてもちろん俺は「ショッポ」を買った。

「うーん、得しちゃった。」
な俺。コトン、コトン。2箱落ちた音。そして取り出す。ただ、なんかちっちゃい。「なんて手の平サイズなんだショッポ。これはJT心理的策略?へへーん、その手には乗らないぜ、JTさんよ。タバコデビューして早1ヵ月。手の平サイズごとき策略で消費者心理はくすぐれないぜっ!」

俺はJTと真っ向勝負した。清原に直球勝負して三球三振した気分な俺は、手の平サイズショッポの封を開けた。もちろん、中身は10本しか入ってなかったのは言うまでもない。そして、大学にそのショッポを持って行って、

「おじさん、じじい、おっさん」と言われ、しまいには、

「うわっ、墓石タバコ」

まで言われた。墓石にお供えするタバコナンバー1は「ショッポ」だと言いたいらしい。俺はその日、墓石らしく黙々とタバコを吸った。それ以来「ショッポ」は吸わないし、JTからフィリップモーリスに会社まで変えた。


俺がまだ中学生でサッカーボーイの頃、国語の教師兼サッカーコーチのジュンちゃんという人がいた。みんなは彼を「純先生」と呼んでいたが、俺は常に「純ちゃん」だった。その理由はただ1つ、俺よりサッカー下手だったから。でも俺は「純ちゃん」のことが大好きだった。

「純ちゃん」は俺たちの前で平気でタバコを吸っていた。「サッカー下手だから、タバコ吸うなよー」と言うと、てへへ、みたいにしてフィルター付近まで吸っちゃう純ちゃん。ぶっ飛ばしたかった。


俺たちが中学生の頃と言えば、「キムタク、オザケン、そしてトヨエツ」だった。多感な年令だった俺は、そこに「アン・ルイス」が入らないことに何故か腹が立っていた。

その3人の中でダントツ人気は「キムタク」ついで「オザケン」最後が「トヨエツ」だった。そして俺は純ちゃんにこう聞く。

「俺は至ってアン・ルイスだけど、純ちゃんは3人中で誰が好き?」

「アン・ルイス」という答えには期待してなかったが、多分「キムタク」だろうなあ、と思っていた。


「俺?俺は断然トヨエツ」


俺は何かバカにされた気分になり、

インサイドキックもろくに蹴れないのにトヨエツかよっ!」

と意味不明な文句を言うと、

「トヨエツの良さはなぁ、タバコの吸い方にあるんだよ。わかってねぇなぁ。アイツ、マジでカッコイイぜっ!」

その時の俺は「大人のお茶漬けを食えない子供気分」だった。身長163センチしかない純ちゃんがデカくみえた。



ただ残念なことに、純ちゃんは指が短いから、トヨエツみたいにカッチョよくは吸えない。そして今の俺なら指だけならできる自信がある。そんな、簡単に俺に負けちゃう純ちゃんが、未だに好きだったりする俺。

暇論

最近気付いたことで、実はもっと早くに気付かなくてはいけなかったこと。


「暇は自殺者を生む」


多分、一般的に考えて「暇な時間」というのは、心身共に休まる時間、と解釈することが多いと思う。この解釈は、
「暇だから寝てた」
とか、
「暇だからテレビ観てた」
とかのリラックス、ダウナー系統のイメージに使われやすい。だから「暇」という言葉の根本には
「休む」
もう少し悪い言い方をすれば
「ダラダラしている」
というニュアンスがマッチする。
しかし、この「暇」という言葉、実はリラックス・ダウナー系統の言葉ではなく、シリアス系統の言葉なのである。



仕事を辞めて、約二週間程経過した。転職というアクションが、非常にネガティブなイメージを未だに含んでいる現代社会に、何となく流れに乗れてないな、という印象を持つのは私だけだろうか。現に転職雑誌や転職のサイト、そのCMが流出している。それは何故か?単純にそれを必要とする人たちが大勢いて、必要とする人が多数いた場合、必然とその関係でビジネスが生まれる。ビジネスという形にまで発展している転職を受け入れられない多くのおじさん、おばさんがいる。だが、それはしょうがないのかもしれない。何故なら、昔は転職という手段があまりにも少なかった。そして年功序列、定年制度が主流だった昔、入り口から出口まで、そこに属することが「善」であった。
自分を擁護するわけではないが、転職には多大なストレスがかかり、多くの労力を必要とし、経済が圧迫され、体力が必要であり、それを乗り越えた人間は多少なりタフになる。生きる上ではお金が絶対に必要で、お金を獲得するために必要なもののひとつとして、タフであること、は不可欠だ。


話がズレたが、転職活動中は仕事をしている時よりも、明らかに時間を確保できる。私は私なりにその時間を使うわけだが、自主的に忙しくしようとも考えていない。この転職期間中をハイペースで生活する理由がみつからない、よってそこまで高度なモチベーションは生まれないし、維持できない。だから私は「暇」と遭遇した。だが、その暇と遭遇した時、私はテレビを観たわけでもなければ、寝たわけでもない。ボーッともしていなかった。では何をしていたか?私は暇の渦中、

「考えていた」


考えるの内容としては、1+1=2ではなく、1+1=何故3ではないのか、みたいなこと。要するに回答不能。ただ、これを考えている最中、私は非常に恐い想像をした。


「この思考方法の最後には、必ず死が存在する」


答えのない疑問の終止形として「死」は存在する、と私は考える。そしてこう考えた。


「自殺者の中には必ず暇がきっかけの者がいる。」


忙しい者が忙しい最中、自殺することはまずない。思考のウエイトが忙しさに傾いているからだ。サッカーの試合中に自殺なんて考えないし、セックスの最中にだって考えないだろう。寝てる人は自殺できないし、テレビがおもしろければ自殺なんて考えない。


幸いにも私の場合、暇を感じながらも、死を考えていても、自殺には至らないという自信が保たれている。

「保たれている」


そう、自殺するとしないは、ある意味紙一重なのである。何故なら、暇を持たない人間はどこにもいないからである。場所、時間、精神状態、社会的立場、人間関係、このようなものと「暇」が、負のマッチングを成立させたとしたら、自殺をしないと言う断言は絶対にできない。


それくらい「暇」とは危険なスペースなのである。私たちが「暇」とうまく共存する、それが自殺しないひとつの方法かもしれない。

チープライフ

その日暮らしの生活
惰性的に進み行く時間に
飼い馴らされてる私

笑い飛ばして見せるけど
本当はかなり焦ってる

蝉の鳴き声聞こえる
真夏日に垣間見る虫たち
生きてる意味は何ですか?

巻き戻し効かない
早送りできない

思い切って飛び出してみた何か変わるかな?って
そうして後悔してみた
少しは泣けるかな?って

でも泣けなかった
真夏の蝉たち
「泣き方」が上手でした

名称未設定フォルダー6

日本対オーストラリア戦の視聴率は、多分85.3を記録すると俺は思う。なぜなら、俺が人の数倍TVにかじりついていたから。ある意味俺は「視聴率を取れる男」なのである。                   さて日本ですが、1対3で破れました。色々敗因はあります。
点が取れない。

怪我人多い。

三都主がボーズ。

小野もボーズ。

坪井は何か、仕方ない。

解説のオカチャンが懐かしい。

そしてカズがいない……かなりの痛手だ。

何故KAZUがKINGかをみんな知らない。別に王様だからではない。

本当のことを言うと、これはかなり単純で、カズのイニシャル「K」に現在進行形の「ING」を付けただけ。要するに直訳すると、

「カズやってまーす」

みたいなもん。もう少しフランクに言うと、

「カズってまーす」

で、英検準1級レベルだと裏を読んで、

「またぎフェイントしてまーす」

が正解。

それにしてもカズ不在がかなり痛い。一番いけないのはオカチャン。カズをフランスで落選させたから、カズがふてくされたんだ。

「落ちたのは北沢、カズ、三浦カズ、市川の三名」

オカチャンがこの台詞でカズを二回落選させているのは一目瞭然だろう。一度で二度おいしい。

カズ、永遠の進行形。

名称未設定フォルダー5

俺の周囲にはギャンブル好きが多数いて、パチンコ・
パチスロ・競馬・ロト6・麻雀などが彼らの遊びにあたる。
上記のギャンブルに「競輪」が加わった時、俺は彼らと縁を切ろうかどうかを切実に考えようと思う。


先日、俺は何ヶ月ぶりかにパチンコを打った。
俺はパチンコを初めてこの方、負けた記憶がほとんどない。
トータル的に見た場合、ほとんどの者たちが負けに属するようだが、
俺は多分勝っていて、この何ヶ月ぶりかに打った今日も勝った。


まぁ、勝ち負けはどうでも良い。どうせ娯楽である。
生活苦になるような負け方はしない。
俺は、負け方の上手いギャンブラーこそギャンブルが上手い人だと思う。
その点でいけば俺はパチンコが上手い人、ということになる。
まぁ諸君、見習いたまえ。


さて、何度も言うが、俺は久しぶりにパチンコをしたのである。
パチンコは孤独だ。
ひたすらに銀玉を打ち、その銀玉がスタートポケットに入る行方を追う。
そしてスロットが回転し、目を揃える。
リーチがかかれば興奮するし、それがスーパーリーチに発展した時、
我々は残り1列、回るスロットの出目に目を凝らす。
俺も目を凝らす。
大抵、俺は当たりが予想できる。
感覚でわかる。だが感覚だから説明のしようがない。


パチンコを打つ人の中で、リーチ中に台をこれでもか、と叩く者がいる。
そして今日もいた。
それはキャバクラ嬢の風体をした女で、その女は俺の席から3つ離れた台に座っていた。嫌な香水の匂いが俺の鼻を刺す。
その女は手のひらの土手辺り、要するに「ショウテイ」のような感じで台をガンガン叩く。その叩き方は尋常ではなく、振動が俺の台にまで響く。


「叩いて当たるなら苦労しねぇよ」


と思っていたら女は当てた。

世も末である。
叩いて当たるならパチプロいらずだ。
俺は無性に叩きたい衝動にかられる。
俺は大当たり後、約150回ほど回している。
そろそろ連チャンして良い頃合だ。
それなのに、
ガンガン女が「ガンガン」して当てた確立95%

リーチがかかった時に「ガンガン」を行う確立100%

俺が次に当てるだろう確立、プライスレス。

ニコスカードのCMなどどうでもいい。


俺はガンガン女を睨んだ。
「うっせぇ、このアマ」
とでも言わんばかりに。

ガンガン女も俺を見返す。
「当てたきゃ叩け」


俺は目をそらした。
俺の負けだ。
でも、叩いちゃいけないよ、姉さん。
叩いたら店員さんに言い付けてやるんだから。


すると1人の工事現場風な男がやってきた。
何やらそのガンガンと仲良く話している。

「彼氏さんか!」

俺の心は躍動した。
俺は言いたかった。店員さんに言う前にこのガンガンについて言ってやりたかった。
「この人、リーチかかる度にガンガンやるんですよ!しかもショウテイで!台が壊れちゃいますよ!周りのお客さんにも迷惑ですし、止めさせた方がいいですよっっっっっっっ!」

もう「っ」が一杯になるくらい語尾を強調して言ってやりたかった。
それなのにガンガン女は、彼氏がいるのにも関わらずガンガン女は、
性懲りもなく「ガンガン」やる。

その時。
「おい!」
とうとう彼氏の出番である。


「俺の怒りを代弁してくれ、彼氏」


「やり方がちげぇよ」


なに?やり方?何それ。
やり方の問題じゃなくて、そこは彼氏として彼女に、
「台が可哀想だし、周りに迷惑だから、ガンガンはよそうゼ」
じゃないのかい?


「そういう時はこうやるんだよ」
と言った時、彼の右手は「グー」だった。
「パー」じゃなく「グー」
そして台を叩く、いや、殴る。
「ガンガン」の音が可愛らしく思えた。効果音で表すなら、


「ギャオン、ギャオン」

音が違う。

「えー、私にはできないよー」

いや、もういい。お前らはもういい。

「ほら、見てみろよ」

「すごーい、当たってるー。しかも確変じゃーん」


世も末だ。
殴ると当たるのなら、パチンコの攻略本もいらない。
とりあえず、これからは打つ前に台を2、3発殴っておこうと俺は思った。

名称未設定フォルダー4

今私は自分の寝床にいる。携帯電話から更新することが増えた現在、多少なりとも文字を打つのにやりづらさを感じるのだが、思いついた時にすぐ書き込めるという利便性に私のモティべーションは救われている。

「おもしろい文章」とは何かが自分の中で疑問視されることがある。
「この本がおもしろい」
そう言われる、書かれる、薦められるといった物を、私は何の抵抗もなく読む。「これは良い曲である」
も同様に聴く。
ただ、全てが全て読むわけでも聴くわけでもない。始めの1行で投げ捨てる書物もあれば、前奏で「OFF」される曲もある。私はそれで良いと思うし、強ち間違ったことでもないと思う。

「選択」をしない人が多いと私は思う。


人がこうしたから、人がそういうから、前例がこうだから、そうしました。


私は12年間ほどサッカーをしていた。数あるスポーツの中でも、サッカーは流れや状況に対応する能力を非常に要する競技と私は思う。野球にはタイムがあるし、競技進行にも間隔がある。バレーボールもタイムが何度かある。バスケットはどちらかというと、サッカーに近い。いや、サッカーよりも、かもしれないがバスケットに関してはあまりよくわからない。
要するにサッカーでは、45分間、流れの早い遅いはあるにしろ、止まることがない。選手交替の時でさえ、FWはゴールするためのポジションを探ろうと動くし、DFはその選手を警戒し、最高のDFポジションを探す。そして、サッカーほど「個人」と「団体」という考えの間に矛盾が生じるスポーツはない。それを大いに物語るのが、「キャプテン翼」である。あの漫画ほど個人を特化した団体スポーツ漫画はない。何せ、イレブン全員に得意技を持たせているのだから。

話が脱線した。
とにかく、サッカーは団体スポーツでありながら、個人の「選択する能力」が非常に問われる。コーチが試合前に指示をしても、ピッチに立てば自分で選択をしなくてはならない。野球のようにコーチからサインなどはないし、ベンチからの声は歓声によって聞こえない。目の前の敵をどう潰すか、それがメンバーに残るため、そして勝つための手段であり、プレーの選択を誤れば、自分が潰され、負けに一歩近づく。私はそういう瞬間的な選択を、練習と経験で培ってきた。そして瞬間の選択を楽しんだ。

「やるかやられるか」

これほど楽しい瞬間はない。

私が思うに、その多くの者が「選択」を苦しいものと解釈しているような気がする。そして誰もが選択に長い時間をかける。そしてその時間は吟味のための時間ではなく、大抵が選択を避けている時間である。

選択物の種類によって時間のかけ方は違う。ただ、冒頭で書いたシチュエーション(薦められた本、曲を全て試すか否か)の場合、そういった早いレスポンスは大事だと私は思う。性に合わない物、価値観にそぐわない物は、投げれば良いし、OFFにすれば良い。書物や音楽などは、別に無理して窮屈な思いをして読んだり聴いたりする代物ではない。選んだ物を読めば良いし、選ばれた物が読まれれば良い。それなのに、価値のわからない(知りたくもない)曲や本を試し、理解しようと無理に聴き、読む。選択をせずにダラダラと読み、聴き、それをあたかも知ったかのように振る舞い、自身の得た教養、情報と「錯覚」する。そんな奴はただの馬鹿だ。合わない物だというのに判断を怠り、それを除外しないが故に、興味もないものを読破して読んだ気になる。それは選択することを放棄した、ただのマシーンだ。そいつは犬以下だ。犬だって選択はする。食えない物は避ける。

選択をしない者は生きた屍である。その人は死ぬことすら選択できないのだから。だから、そうならないためにも、限りなく続く選択の道を、私は死ぬまで歩もうと思う。

名称未設定フォルダー3

今、麻布十番ウェンディーズにいる。

ウェンディーズは肉が四角い。それが食べやすいとか利便性を感じるとか、そんな気は一切ない。

最近、食事をひどくつまらないものと感じることがある。食ったら食ったでうまい、まずいを感じるのだが、
「うわぁー、今日のハンバーガーたっのしぃー」

などとは思えない。
今まではあった。

「おっ、今日のたぬきそば、楽しいじゃない」

たぬきそばで楽しむ俺は、かなり人生楽しんでる人に違いなかった。たぬきそばで楽しむ人は、そうそういない。

それにしても、黙々と食する人たちが増えた。以前、卵かけゴハンを食べながら爆笑する奴を見た。黄色い米粒が辺りに散らばる。そして俺はそいつを軽蔑した。

ん?おかしい?

この話のスジでいった場合、卵かけゴハン食べながら爆笑人間は、俺から多大なる尊敬の念を受けておかしくない。
なのに軽蔑が先行逃げ切り。


よーく考え追求しすぎた結果、俺は周囲から軽蔑されたい精神を芽生えさせてしまったらしい。

軽蔑される奴の大体は、非常識的な行動や言動を犯した奴が該当する。殺人もこのスジにあたる。でも殺人をしては意味がないし、俺はできればしたくない。

だから卵かけゴハンちらばせ人間なのだ。
これを食って爆笑すれば、みんな俺を軽蔑するに違いない。

ただ不覚にも、ウェンディーズに卵かけゴハンがない。これは計算外だ。大戸屋が愛しい。
だからとりあえず、代替としてサラダに入ってるクルトンを食って爆笑してやった。

ちなみに俺はクルトンを尊敬しているので、彼をクルトン大佐、と呼ぶ。なんせ彼は偉い。コーンスープとかサラダの飾り的存在というポジションながら、文句ひとつ言わず、飾りに撤する。男気満載だ。

だからとりあえず、皆もクルトン大佐に敬礼したのち、大佐を口いっぱいに頬張って爆笑しろ。大佐が可憐に散ってくれるから。

「軽蔑は爆発だ!」